サティ
毘鉢舎那
:直接の知覚
ゲーランニャスッタ
正知 †
●見るもの、聞くもの、感じるものなどを捏造しないで、自分で解釈・判断しないで、そのまま受け入れてみるのです。そのまま認識してみるのです。
●ちょっとの時間、捏造をやめてみます。
見えるもの、聞こえるもの、感じるものを、そのまま、見て、聞いて、感じて、じーっとなにも考えないで、判断しないで生きてみます。
●これは修行です。妄想しないで、思考しないで、データをありのままに知るという修行です。
●耳に絶えずなんらかの音が触れていますね。この本を読んでいる今も、何かしら聞こえているでしょう?その音だけを聞いてみてください。
●「あ、これは鳥のさえずりだ」「カラスの声だ」「子どもが遊ぶ音だ」などという妄想はしないで、音だけ聞きます。
●感情が変わること、聴覚が変わること、音も瞬間、瞬間、変わることを発見します。「私」が、「自我」が、ないことを発見します。たちまち悟りに達します。それで苦しみが消えます。
●なにもしないで、なにも思考しないで、捏造しないで、ただ、見て、聞いて、感じているのです。
●正知が現れたら、すべての問題が、間違いが消えます。
「結局は自分のことを 何も知らない」 サンガ新書
アルボムッレ・スマナサーラ
スマナサーラ氏の解説を読んでいると、「概念」を反応させないようにするための 工夫のひとつとして、「実況中継」というやり方が考え出されてきたのだと 思われます。
マハーシー系などのヴィパッサナーでは、聞こえてくる音を聞いて、「車だ」「鳥だ」、「好きだ」「嫌いだ」と思考が反応する前に、概念が反応する前に、「音、音」と唱え、事実の段階で止めるのです。
痛いと痛み †
小説の中では、主人公が怪我をした瞬間を書こうとすると、「痛みを覚えた」と書くしかありません。
「思わず呻いた」とかなんとか そういう表現が続くかもしれませんが、
「痛てっ!!と感じた」
という風には書きません。
痛みの「瞬間」を描こうとすると、どうしても実況中継風になってしまいます。
実際、自分がどこかに体をぶつけたりした時も、痛みを覚え、その後に「痛たい!」とか「痛ててっ」とか「うぐうっ」とかが出てきます。
強い打撲の場合などは 最初は 衝撃だけを感じます。もっと強い衝撃の場合は 麻痺感や、痺れの方が強くて、痛みを感じるようになるまでに時間を必要とする場合もあります。
いずれにしても、その瞬間は、ただ痛みを感じるだけですから、サンパジャーナ(正知)です。
しかし、「痛い!」と思うと、これはサンパジャーナ(正知)ではなくなるんだそうです。
スマナサーラ氏は ゲーランニャという経典を解説する小冊子の中で、「痛い!」と実況中継するのは誤知だけれど、 「痛み」と実況中継すると、正知だとしています。
病気のときは 放っておいても症状が出てくるので 観察対象には 事欠きません。痛みを観察の対象とする瞑想があるくらいです。
こころの中で確かに 条件反射のように、「痛い!」と念じています。
生じている感覚を 条件反射的に「イヤだ」という気持ちを込めて見ています。
顔をしかめて、「イヤだ」という目つき 表情になっています。
感じた瞬間 正知(あるがままの知覚)であった意識が 次の瞬間には ファンタジー(妄想、幻想、物語)の世界に居るのです。
言葉を使って 他人とやりとりをする時も もちろん同じことが起こっていることになります。
コミュニケーションについて深く追求している 伊藤守氏は 相手がどのような意味を込めてその言葉を使っているのかにはお構いなしに、「その言葉に自分が加えている解釈」 の方に 人は反応するものだ、と述べています。
スマナサーラ長老の説明は、幻想が生まれる前のところ で踏ん張って 注意深さを維持して 正知を守るのが サティだ という風に読み取る事が出来ます。
マハーシー氏は「ミャンマーの瞑想」の中で、痛みが生じたときは、「 痛い、 痛い 」と念じる と、書いています。普通の速度で(速くもなく、遅くもなく)言葉を二度重ねることで 実況中継の立場(観点)を維持しているようです。
結局のところ、どんな言葉を使うかは、関係ないように思えます。
自分に生じている感覚を、あるがままに感じ取れれば 正知(正確に知ること)であると言えないでしょうか?
犬や猫は 足やシッポを踏まれたとき、その瞬間、きゃいん!とか みぎゃ! とか 大声で叫びます。
人間なら、さしずめ「痛っ!」でしょうか?
でも、骨折でもしていない限り 平気な顔で歩き去ることがほとんどです。
いつまでも しつこく、「いてええ〜」とか 「いたたたた・・」とか、恨みがましく怒りを込めた声を出すことはありません。
サンパジャーナ実験